今日までのあゆみ

  • 創業-相互扶助の精神-

  • 堅実経営と発展

  • 戦後の再建と躍進

  • 新たな時代と進化

戦後の再建と躍進 1945~1989(昭和20~平成元)年

相互会社としての再出発

式典で挨拶する弘世現

終戦間もない1947(昭和22)年5月3日、「日本生命保険相互会社」が産声をあげました。
当時常務であった弘世現第五代社長は、この相互会社化について、一般に言われていたGHQの経済民主化の一環との考えを否定したうえで、「新会社設立にあたっては、本来のあるべき姿に立ち返り、断然相互会社とすべきとの決意を固めた」ものと述べています。弘世は、当社が、契約者配当を日本で最初に実行し、相互扶助の精神をもって出発していることに原点を求めたのです。

相互会社は、株主配当を考慮する必要がなく、剰余金の大部分をご契約者に還元できます。また、生命保険契約というお客様との長きにわたるお約束を果たすため、長期的に安定的な経営を行うことにも適しています。そこには、ご契約者の利益を最優先し、また、保障責任を全うするという創業以来の当社の思いが込められています。

エンゼル号の活躍

日生エンゼル号(後ろは旧本館)

1949(昭和24)年7月、医療機関に恵まれない地域での無料診療や健康相談、また災害発生時の緊急救護を目的とした診療車「日生エンゼル号」が誕生しました。
一号車は中古車を改造したもので、当時、まだ配給制だったガソリンは、大阪府へ申請し、限られた分量の支給を受けながら全国を走り回りました。この積極的な診療活動は、各地で非常に喜ばれ、好評を博したことから、同年10月に二号車、続いて翌年3月には三号車を完成させ、東京・大阪に分駐。それぞれが同時に各地を巡回しました。

また、新潟市の大火、ジェーン台風、北九州の水害などの災害時にはただちに現地に出動し、被災者の救護に協力するなど広範囲に活躍。このため走行距離は六年間で十万キロメートル以上に達し、九州から北海道まで全国ほとんどの土地にタイヤの跡をしるしました。
さらに学童集団検診やレントゲン検診などへの協力を含め、延べ受診者数は66,000人にも達しましたが、その使命を全うするため、1958(昭和33)年に日本生命済生会へ移管しました。

投融資と地域還元

自動車などの新規産業への投融資例

九州地区のバス会社へ地域還元融資を開始

当社は、明治期から投融資面で地域の発展に貢献すべく心がけてきましたが、戦中・戦争直後は資金的な余裕がありませんでした。
1951(昭和26)年頃から地域への資金の還元を再開し、公益性の高い私鉄、バス、ガス会社など地域密着企業への投融資に注力しました。特にバス会社はモータリゼーションの進行とともに、地域住民の移動手段として重要性を高めてきたことから、九州地区を手始めに全国一円に融資取引を拡大。当時、バスの新車販売に力を入れていた有力自動車メーカーとタイアップして、バス購入資金融資の便を図ったこともありました。
もちろん基幹産業である鉄鋼業の高炉建設や重化学工業のプラント建設に代表されるようなメーカー各社や住宅公団など社会資本形成の設備資金を供給し、経済復興、産業発展にも寄与しました。
その後、産業構造の変化、企業の資金調達の多様化などにより、ニッセイの投融資も変化を遂げ、第二次産業から第三次産業へ、大企業から中堅中小企業へ、また貸付中心から各種証券投資、住宅ローン、不動産投資など次第にバラエティに富んだものになってきました。
一方では、各地に財務担当者を配置し、地域に密着した活動を展開していました。

「暮しの保険の発売」とフェイス・トゥ・フェイスサービスの発展

地域にとけこむ女性営業職員

昭和30年代には「もはや戦後ではない」と言われるほど生活が豊かになり、平均寿命が長くなるなど、社会情勢に変化が生じていました。

そのような変化のなか、新しい商品への要望が高まっていましたが、日本の生命保険市場は長い間画一的な商品販売を続けていました。当社はこうした時代の変化をとらえ、1957(昭和32)年に初の全国的な市場調査を実施。その調査を経て開発されたのが「暮しの保険」です。お客様の家族構成・ニーズに合わせて自由な設計ができる画期的な商品でした。本商品は、その後20余年にわたり当社業績を支える主力商品となりました。

当社は「暮しの保険」以降も時代のニーズに合わせて様々な商品やサービスの開発・提供を行っていますが、それらを支えるのは全国に在籍している営業職員によるフェイス・トゥ・フェイスの活動です。

創業から大正期の当社の販売チャネルの中心は代理店でした。しかし次第に専門知識をもった専任の営業職員が求められるようになり、1954(昭和29)年には一人ひとりの営業職員が担当地域を持ち、新契約募集・保険料集金といった諸手続きを行う「デビット・システム」を導入しました。

現在でも、営業職員がお客様一人ひとりを訪問し、入院や手術等の有無の確認、契約内容や各種サービス等、お客様に有益な情報をご案内する「ご契約内容確認活動」を展開していますが、これからも当社はお客様との関係を大切にし、サービスを向上させるため、営業職員の活動の在り方を常に進化させていきます。

日比谷ビルと日生劇場

日生劇場の開場ポスター

舞台より見た客席

創業70周年を記念して1959(昭和34)年7月に着工した日比谷ビルは、1963(昭和38)年9月に竣工しました。地上8階、地下5階、延面積42,878平方メートル。外装は総花崗岩造りで、村野藤吾の設計による格調高い建物です。ここに東京総局(現:東京本部)を日本橋から移しましたが、最大の特徴は建物の半分を劇場にあてたことで、日本の芸術・文化発展の一助にすべく「日生劇場」と名づけられました。

日生劇場は1963(昭和38)年10月、世界でも屈指の近代的劇場として開場。こけら落としにはベルリン・ドイツ・オペラを招きました。

翌年には創業75周年を記念して「こどものためのミュージカル・プレイ日生名作劇場(現:ニッセイ名作シリーズ)」の講演を開始し、小学生を無料招待しています。これは優れた演劇の鑑賞を通じて児童に夢を与え、情操を育むことを意図したものです。また、この事業の充実、発展のために1973(昭和48)年11月には財団法人ニッセイ児童文化振興財団(現:公益財団法人ニッセイ文化振興財団)を設立しました。

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