今日までのあゆみ

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創業~相互扶助の精神~ 1889~1899(明治22~明治32)年

1889(明治22)年 有限責任日本生命保険会社設立

創業者 弘世助三郎

日本生命創業のアイディアは滋賀県彦根市で生まれました。

彦根の銀行家、弘世助三郎は、地元の相互扶助の組織に古くから関係していました。
これは皆で出し合い積み立てたお金を、万一の震災や貧困、病気などのときにあて、お互いが助け合うというもので、彼はこの相互扶助の事業に深い関心を抱いていました。

そしてこの相互扶助の仕組をいっそう整備して、社会に広く実施したいという思いの中、彼の呼びかけで関西財界が結集。1889(明治22)年7月4日、大阪府知事に「有限責任日本生命保険会社」の創立願が受理され、ここに日本生命の歴史は始まりました。

日本独自の保険料表の作成

藤澤説承諾の電報

1889(明治22)年7月4日、大阪府知事に「有限責任日本生命保険相互会社」の創立願が受理され、ここに日本生命の歴史は始まりました。しかし、本当の意味で「日本生命」が誕生するには、それから2カ月半を要することになります。

フジサワノセツショウチセリスグタノメ

この18文字の電報に込められた決断こそが、日本生命の誕生を意味するものでした。

当時、日本独自の保険料表がなく、当社でも欧米の死亡統計に準拠したものを利用することが想定されていました。しかし、安定的な事業運営を第一に考える経営陣は科学的な根拠が不十分な保険料表を用いることを是とせず、開業は日一日と延期されることとなりました。
この問題を解決したのが、東京帝国大学教授 藤澤利喜太郎氏の協力でした。
ただ、これには「契約者の利益配当の実施」という条件がつけられました。利益配当は今日でこそ一般的ですが、会社の利益を、出資者ではなく契約者に割り戻すことは思いもよらぬことでした。
藤澤の協力を求めて東京に出張していた担当者からの報を受け、大阪では緊急の重役会議が開かれました。そして、保険の根本にある「相互扶助」の精神にもとづき、藤澤の意見を取り入れることが決まったのです。この決定を伝える電報がすぐさま東京に飛びました。藤澤たちは連日遅くまで作業を続け、日本独自の死亡統計にもとづく保険料表は一週間でできあがりました。
そして1889(明治22)年9月20日、日本生命は営業を開始しました。
創業から9年後の1898(明治31)年に実施した第1回大決算で実際に配当を行い、お客様とのお約束を果たしました。これは日本初の契約者利益配当となりました。

第一号契約

「九月二十日 金曜、本日開業ス 保険申込人拾名アリ」

創業当時の日誌にこう記されているように、開業初日の保険申込人は十人を数えました。その中のひとりで、契約者第一号となった近沢栄太郎は、兵庫県で木綿商などを手広く営む素封家でした。

近沢は商品の仕入れの関係で大阪には頻繁に訪れており、そこで、今橋二丁目の当社新社屋にちょうど掲げつつあった「有限責任日本生命保険会社」の看板を目にしたのです。
元来、好奇心の強かった近沢は、看板の中の見慣れない「保険」の二文字に興味を持ち、職員に詳しい説明を求めました。そして、その合理的な仕組に大変感心して、その場で「尋常終身保険」の契約を申し出たのです。

契約は、保険金額が百円、年払保険料は三円三銭。当時、天丼一杯が三銭の時代でした。

第1号保険証券

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