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今日までのあゆみ

  • 創業−相互扶助の精神−

  • 堅実経営と発展

  • 戦後の再建と躍進

  • 新たな時代と進化

堅実経営と発展

創業当初からの堅実姿勢

開業直後、重役陣も保険に加入しようということになり、医師の診査を受けました。診査の結果、保険料の割増し条件がつけられて不平を言う者もいましたが、当時の片岡直温副社長(のち第二代社長、大蔵大臣)は、「重役から保険の根本主義を壊しては…、堅実に経営することは出来ない」と力説して納得させました。診査医についても、各地の名医を揃え、厳格な診査をモットーとしました。

また当時、生命保険は世の中にほとんど理解されておらず、片岡は職員とともに、交通網が発達していないなか、全国各地を奔走しながら地元の有力者などを代理店として保険募集を進めました。このひたむきな情熱は「馬車馬主義」と呼ばれました。

厳格な診査と馬車馬主義は、保険事業の基礎となる健全な被保険者集団をいち早く形成することにつながりました。明治25年、当社は保有契約高500万円を達成し、祝賀会と開業式を兼ねた祝典を開催しました。開業して3年、経営が軌道に乗るのを待って開業祝典を挙行したことは、当社の堅実性の表れとして人々に感銘を与えたといいます。
業期の役員・職員たちの努力は、着実に会社の基礎を固めることにつながっていきました。開業から10年後には、保有契約高で先行の保険会社を上回るほどとなったのです。

生命保険事業と人

生命保険は次第に世の中に普及していきましたが、当社のあゆみには、さまざまな困難が伴いました。大正の終わりから昭和の初めにかけては、業界内の競争が激化、大手他社の攻勢もあって当社の新契約業績は伸び悩み、一方で、昭和2年の金融恐慌により多くの銀行が倒産するという危機的な経営環境にありました。

そうしたなかで、会社を支えたのは、相互扶助の精神のもとお客様のために誠実・勤勉に業務に励む職員=「人」の力でした。昭和4年頃には、新たな販売体制も確立、募集社員(営業職員)の活躍により、大正末の2倍以上の新契約高を確保するに至るのです。当時の社長弘世助太郎は、「生命保険事業に必要なのは一にも人、二にも人。この事業に従事するものは常にこの点に留意して修養練磨に努めなければならない」として、社業の発展には職員の奮起が不可欠であると確信していました。

その後も、経営トップは日本生命の「原動力」としての「人」の大切さを訴えてきました。戦争、石油危機など大きな苦難に直面するたびに、当社は、「お客様のために」という精神に立ち戻り、役員・職員全員が一丸となって、困難を発展につなげてきたのです。

誠実なお支払いの姿勢

応召社員原簿(昭和12年)
戦争は、職員の出征や軍需産業への徴用などにより社内体制にも大きな影響を与えた。人手不足のなか、戦火が激しくなり、保険原票を支社に「疎開」させて保全事務等を継続した。

創業から半世紀以上にわたって、たび重なる戦争が、支払保険金の増大という問題をもたらしました。戦争による死亡については、約款上、保険金を削減してお支払いし、あるいは、出征軍人から「特別保険料」を徴収することも可能でしたが、当社はこれらを適用せず、全額のお支払いをしてきました。

大正7年から9年にかけて全世界で猛威をふるった「スペイン風邪」は、極めて感染力の強いインフルエンザで、日本でも人口の4割以上にあたる2,400万人が罹患し、39万人の死者が出ました。生保業界では、実際死亡率が予定死亡率を超過し、各社の経営に大きな影響が生じましたが、当社は保守的な死亡率を用いた堅実な運営を行っていたことなどから、計算の基礎が危うくなるという事態に陥ることはありませんでした。

堅実で健全な経営を行い、確実なお支払いを実行する姿勢を持って保障責任を全うする、このことこそが生命保険事業の根幹なのです。